南スペイン、南房総での、おだやかな田舎暮らし「イシイタカシの世界」
南スペイン生まれのピカソ
 もう三年前になるが、隣村の婦人会がバスを仕立ててマラガの街にできたピカソ美術館にいくことになった。マラガは地中海に面した太陽海岸にあるスペインを代表するリゾート地であり、ピカソ生誕の街でもある。早速元気な地元のオバサンたちと一緒にでかけることになった。下町の細い路地を進むと瀟洒な屋敷風の美術館があった。驚いたことに展示品のなかに四十年代から五十年代にかけて南仏のバローリィスの陶房で制作した作品が多数あった。これだけの収集は他の美術館にはみあたらない。大好きな作品だったのでこの後も何度かみに訪れている。
さて、美術館の近くラ・メルセド広場の一角にピカソ生誕の家がある。一八八一年に生まれ十歳になるまで彼はここで青春時代を過ごし、画家としての道を歩んだ。その後マドリッドやバルセロナで本格的に絵を学び二十歳になると活動の場をパリに移した。いってみればピカソは婦人会のおばさんたちと同じ生粋のアンダルシア人なのだ。風土としての価値観や精神性はなんとなく共通性があり、ピカソの作品と生き方に反映されている。鍵は強烈な郷土愛である。このあたりをお話したい。
 まず、アンダルシア人は闘牛が大好きである。もちろんマラガには立派な闘牛場があるし、ピカソが九歳のとき、馬に乗った闘牛士ピカドールを描いている。四十歳のころには半牛半人、ギリシャ神話のミノタウルスをテーマにエッチングなどで沢山の作品を描いている。一九三七年、スペインで市民戦争が起きたとき、フランコ政権はバスク地方のゲルニカへ無差別爆撃をおこなった。これに抗議し、パリ万博に出品したのが有名な「ゲルニカ」である。この作品のなかにも自身を投影した牛が登場している。闘牛はアンダルシア人の郷土愛としてのイコンである。代表作「アビニオンの娘たち」はバルセロナの街の女を描いたのだが、その顔はどうみてもアンダルシアの女たちだ。七六歳のとき「宮廷の侍女たち」の連作を描いた。マドリッドのプラド美術館にあるベラスケスの名作を自身の解釈のもと、作品にしている。まあ、スペインの巨匠にアンダルシア人が挑戦したといってよい。八七歳、「エロチカ三四七」のエッチングシリーズを描く。生命の根源に迫る気迫ある作品だ。こうなると表現者が「生きるとは」を絵によって指し示したといってよい。艶福家ピカソならではの作品群であろう。人間模様の陰影をこれほどまでに表現しえた画家は少ない。最後に余談だが写真家D.D・ダンカン氏が撮ったピカソの手の写真をみて驚いた。ほとんど寸部違わず同じ手相をしていたのだ。半分アンダルシア人になりきってしまった自分にとって、奇妙な親近感がある。  ラ・メルセド広場を後にしてバスに戻ると豊満で陽気なオバサンたちが待っていた。体形は明らかにピカソの描く女性たちである
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